とある東大法学部生(留年)の日常

このブログを構成するであろうキーワード達:ロー入試/予備試験/司法試験/散策/腕時計/西洋絵画/読書/アニメetc.

【絵画】墨と金–狩野派の絵画–展の覚書

根津美術館で開催中の本企画展を見てきましたので、簡単に覚書を記しておきます。なお、私は日本美術については無知であり、本展も予備知識の無い状態で見てきました。よって、以下の覚書には、勘違いや記憶違いの記述が含まれている可能性も十分にありますので、その点をご留意ください。また、もし誤りがあれば、コメントにてご指摘いただけると幸いです。

 

    狩野派は、室町時代に興った絵画の流派である。足利将軍、織田信長豊臣秀吉、そして江戸幕府の将軍らに取り立てられ、その間長年に渡って日本画壇をリードしてきた。

    狩野派において革新的だったものは何か。一つには、絵の画風を整理し直したということがある。室町時代狩野派以前には、注文主が画家に絵を注文する際に、有名な中国人画家の名前を用いて作風を指定するということが行われていた。例えば、玉澗に倣って「玉澗様」、夏珪に倣って「夏珪様」といったように。しかし、この方法には問題があった。指定された同じ画家の中でも、どの作品を模範とするかによって、作風にバラつきが発生してしまうのである。狩野派2代目の狩野元信は、この問題を解決すべく、次の3つの型に画風を整理した。「真体」「行体」「草体」である。これは、それぞれ書道における楷書、行書、草書に対応している。真体は硬い線で緻密な描写、草体は撥墨や滲みを利用した、崩した描写、行体はその中間であり、柔らかみや丸みを帯びた描写を特徴とする。この分類が、狩野派における革新性の一つ目である。

    さらに、狩野派が柔軟に絵画表現の幅を広げていったことも見逃せない。具体的には、6代目狩野探幽による《両帝図屏風》に見て取れるように、屏風絵への金(gold)の使用である。元々、屏風絵に金を使用するのは、やまと絵において用いられていた技法であった。対して、狩野派水墨画における中国寄りの画風であったが、金による彩色を取り入れた。狩野派による初の金屏風制作は、明の皇帝への献上品であったという。その背景には、狩野派が中国絵画との差別化を試みるという、いわば日本化の意図があったと推察される。では、実際に金はどのように使われているだろうか。探幽の《両帝図屏風》での金の使われ方は、単に画面に金箔が貼り付けられるというだけのものではない。むしろ、金箔がベタ貼りされている部分はごく一部であり、その他に、金砂子(金粉)や金泥(にかわに金粉を混ぜて溶いたもの)が用いられている。このように、金を多彩に用いる技法によって、表情豊かな金雲の表現を実現しているのである。

 

その他、箇条書きで…。

・ 《養蚕機織図屏風》(伝元信)における養蚕機織図は、為政者に庶民の生活を知らしめるための画題である。

・麝香猫(ジャコウネコ)は狩野派の画家によってしばしば描かれたが、これは縁起の良い(?)画題であり、名古屋城本丸御殿の障壁画にも描かれている。

 

以上、この辺で!

【アニメ】2017秋アニメの感想

秋アニメが終わってから大分日が経ってしまったので、すでに記憶が曖昧になっている部分がありますが、思い出しつつ書いていきます。

 

ラブライブ!サンシャイン‼︎

http://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/

アイドル活動の話よりも、日常回の方が面白かったです。キャラクターの個性は豊かといえば豊かですが、1期からあまり変わらないので、マンネリ化している部分も感じました。とは言え、ルビィちゃんは2期で大きく成長して、良かったです。

 

いぬやしき

 http://www.inuyashiki-project.com

当初は、「寄生獣」あたりの焼き直しかと思いましたが、これはこれで別の良さがありました。犬屋敷さんの人格者な部分が丁寧に描かれていて、見る側まで感化されるようでした。あと、犬屋敷さんの娘の麻理ちゃんが可愛かったです。

 

少女終末旅行

http://girls-last-tour.com

これは本当に名作でした。見る人を選ぶ作品ではあると思いますが、個人的にはここ数年で見た中で最高傑作です。戦争によって既に崩壊してしまった世界、誰もいない廃墟の中を、チトとユーリのふたりの少女が旅をします。時に生き残りの人間と遭遇し、ロボットに出会い、人類文明の残滓を利用しながら、ふたりは先へと進んでいきます。それはまさに、ふたりが世界について哲学をしていく道のりでもあるわけです。都市とは何か、人生とは何か、音楽とは何か、戦争とは何か。チトとユーリのふたりぼっちの世界、そこは終末世界の寂寥感というよりは、生きることへの愛着、思索することの豊かさで満たされているように思いました。

さらに付け加えるなら、チトとユーリの関係がまた良かったです。ふたりは緊張感を孕みつつも互いに助け合い、時に少女らしく無邪気に戯れる。若干の依存関係も見てとれますが、それはドロドロしたものではなく、あくまでも少女に似つかわしくサラリとしたもの。灰色に染まった終末世界の中で、水彩画のように伸び伸びと描かれる百合要素は、見ていて心地の良いものでした。

【雑記】安倍首相と枝野代表の演説比較

安倍首相の演説( 2017.10.18@池袋)と、枝野立憲民主党代表の演説(2017.10.19@秋葉原)の手法が対照的で面白かったので、両者を見て気づいたことをまとめておきます。

なお、本記事を書いている現在、それぞれの演説は以下のURL先のページで視聴できます。

安倍演説:https://youtu.be/KxxseEZoQqY

枝野演説:https://youtu.be/IPoa6fsMLwA

 

【安倍演説】

選挙カーの屋根上に乗り、聴衆より数メートル高い位置からマイクを用いて演説。内容としては、始め約1/3が北朝鮮問題について、残りは安倍政権の経済政策の実績についての話。

北朝鮮問題の話では、もはや北朝鮮は信頼に足る対話相手ではないこと、拉致被害者救出のタイムリミットが迫りつつあること等を述べる。そのうえで、アメリカを始めとした国際社会との強調が必要であること、また安倍首相自身が、トランプ大統領を始めとして各国首脳との関係強化に努めてきたことを主張した。

続く経済政策の話では、具体的な数字を示しながら、民主党政権時代と比べて、安倍政権下でいかに経済が成長し安定したかを主張した。具体的には、GDPが拡大したこと、株価が上昇したこと、中小企業の倒産率が低下したこと、など。

演説は終始強い口調で行われ、また立て板に水のごとく、安倍首相が話し続ける時間が大部分を占めた。

 

【枝野演説】

秋葉原駅前の広場に、高さ50cmほどと思われる演説台を仮設し、その上に立ってマイクを用いて演説。枝野代表からすぐの距離で聴衆が取り巻いており、聴衆に紛れて演説を行なっているようだった。

内容としては、具体的な政治問題のテーマが設定されていたわけではないが、基本的には安倍政治に疑問を投げかけるもの。アベノミクスの恩恵を受けない人の立場や、安倍首相による政権運営に疑問を持つ人の立場から、安倍政治(あるいはより広く自民党政治)を「強い者をより強くする」「競争を煽る」「自己責任を強いる」「上からの政治」といった表現で批判。若者の車離れ、非正規雇用サービス残業、介護問題、保育所の問題など、具体的な問題を挙げながら、それらが従来型の政治運営によって生み出された問題であることを示した。終始、社会的弱者の目線から、今の政治のどこに問題があり、新しい政治はどうあるべきなのかを示していくものであった。特筆すべきは、政治の本来のあるべき姿を説く中で、立憲主義、民主主義、情報公開といった基本的な政治理念の説明を、学識のない人にも理解できるよう具体的な問題の指摘とともに織り込んでいることであった。具体的には、安倍内閣による集団的自衛権の行使容認の閣議決定を指摘して立憲主義の重要性を説き、安保法制をめぐる自民党強行採決を指摘して民主主義のあるべき姿を説き、自衛隊の日報問題を指摘して情報公開の大切さを説く。こうした基本的な理念が現在の日本政治においては損なわれてしまっていることを主張する。

演説の終盤では、立憲民主党が「本当の民主主義」を実現し、「新しい政治」をもたらすことを述べる。従来型の「上からの政治」ではなく、国民とともに歩んでいく政治。そして、演説の最後で、枝野代表が聴衆に向けて「一緒に戦いましょう」と呼びかけていたのが印象的だった。

枝野演説は全体として、聴衆に向けて呼びかけるような口調で行われ、また常に聴衆からのレスポンスを受けながら行われていた。

 

【感想】

安倍首相の演説は、形式、内容ともに従来通りの演説だった。演説に用いられる言葉遣い、経済政策の成果としての数字の引用の仕方などは、いかにも永田町で話される言葉であり、私自身は、いかにも勉強のできる側近がスピーチ原稿を書いたかのような印象を受けた。安倍政権の強権的な姿勢とその実績について伝わってくるものはあるが、結局のところ政権にとって都合の良い言葉と数字を並べ立てたに過ぎないのではないかという疑念を免れない。様々な数字を持ち出して、アベノミクスで景気は良くなりましたよと繰り返すが、その言葉は、生活の向上を実感できない国民には向けられていない。対して枝野代表の演説は、聴衆に語りかけ、聴衆のレスポンスを受けながら、聴衆との相互作用の中で醸成されていくようであった。内容としても、いち国民の目線から「まっとうな政治」を語るものであり、多くの人々に理解され同意されるものであると思う。

この点については、安倍演説は、(枝野代表の言うような)「古い政治」「上からの政治」を体現していると思う。対して枝野演説は、「国民とともに歩む政治」を体現している。中間層の没落が現実のものとなり、格差が拡大していく中で、枝野演説は「持たざる者」に向けて語りかける。このことに立憲民主党の存在意義を認めずにはいられないだろう。

しかし、一方で、枝野演説は一般論や抽象論に終始しており、具体性に欠けるとの批判も可能である。経済的弱者の立場を守るために、消費税の直近の増税に反対する。では社会保障費が増大する中で、その財源はどうするのか。あるいは、アベノミクスは富める者をより富ませただけだった。では、立憲民主党の経済政策は、どのようにして持たざる者を潤わせるのか。少なくとも、そういった具体的な政策のことは、演説では触れられていない。もっとも、具体的な政策について触れていないのは安倍演説も同様であり、また、そもそも選挙にあたって具体的な政策論議を精緻なやり方で行っている政党は(控えめに言って)決して多くないと思われるので、この点については立憲民主党だけの問題ではないだろう。

また、立憲主義や民主主義の重要性を説くくだりも、それらはいかにも当たり前のことであり、そういった理念を持ち出して説法を行うだけでは、現実の問題は何も解決されない。反安倍リベラル派の票をかき集めるために、耳通りの良く懐の広い、最大公約数的な政権批判の用語を振りかざし、一種のポピュリズム的な手法を用いたという見方も、それは穿った見方かもしれないが、できないことはない。確かに、民主主義や立憲主義といった基本理念をいま再び確認する意義は大いにあるだろうが、他方で、そうした理念が具体的政策の手薄さを覆い隠すための目くらましとして使われていないか、有権者は注意しなければならないだろう。

長くなったのでこれで終わりにしますね。うだうだと書きましたが、皆さん投票に行きましょう。以上。

【アニメ】2017夏アニメの感想

2017年夏アニメの感想を書いていきます。かなり適当です。

 

NEW GAME!!

TVアニメ『NEW GAME!!』オフィシャルサイト

安定と信頼のNEW GAME!!。2期では新キャラが入ってきて、青葉ちゃんとねねっちのキャラも深まりました。個人的には、ねねっちの努力家な側面がうまく出ていて良かったと思いました。1期のねねっちは完全にイタいアホの子だったから…。あと青葉ちゃんは、シリアスな感情を露わにする場面がいくつかあって、良い意味で人間味が出ていましたね。明るい一辺倒ではなくとも、清涼感のある可愛さを与えてくれる青葉ちゃん、とても良かったです。

 

賭ケグルイ

TVアニメ「賭ケグルイ」公式サイト

個人的に一番面白かった作品。各話ごとにギャンブルが行われ、挑戦者である夢子は窮地に陥るが、最終的にはいかさまを見破って勝利する、というのが基本の流れ。いかさまを見破る場面などは、良質な推理小説の種明かしを見ているようで、面白いです。転校生であり挑戦者の夢子は、各話で勝負を積み重ねていきながら、強大な権力を握る生徒会と勝負をすることになります。第1話から第12話まで一気に話がエスカレートしていくので、全く退屈しませんでした。作画面を見ても、全体的に綺麗に描かれていて、また何と言っても要所要所で出てくる顔芸が面白い。余裕があれば原作まで読みたくなる作品です。2期を強く希望。

 

捏造トラップ-NTR-

TVアニメ「捏造トラップ−NTR−」公式サイト

良質な百合アニメ。10分の短編アニメなのですが、毎回ほぼ必ず性的な接触シーンが出てきて、百合好きとしてはとても嬉しいです。かと言って、そういう場面だけが見どころなのかというと、そうではない。由真が蛍にキスされて最初は戸惑い、次第に蛍への恋愛感情に気づき、蛍の冷たい対応に困惑し、最終的には蛍の真意に気づいて結ばれる。そういう大きな感情の変化が、作品全体を通して無駄なく描かれていて、精神的な側面においても良質な百合要素を提供してくれる作品でした。

 

はじめてのギャル

TVアニメ「はじめてのギャル」公式サイト

非リア高校生のジュンイチが、罰ゲームで同級生のギャルに土下座告白。なんとオッケーを貰えて、ジュンイチ、ゆかな(ギャル)、その他の女の子たちのラブコメ生活が始まる…。ざっくり言うとそんな話なのですが、個人的にはジュンイチよりも、ジュンイチの悪友達の言動が面白かった。非モテ男であれば、彼らの行動や台詞には笑いつつも、いちいち共感できる部分があるはず。あと、棒読みっぽい感じで台詞を読み上げる声優の演技が、彼らのDTっぽさを引き出していて、とても良いと思いました。

 

以上です。

【絵画】アルチンボルド展の覚書(途中まで)

国立西洋美術館で開催されているアルチンボルド展に行ってきたので、感想や新たに知ったことなどを覚書的に書き留めておこうと思います。

(※アルチンボルド展に足を運び、本記事を書き始めたのは今から1カ月ほど前のことでした。その後、本記事を書きかけのまま放置してしまっていました。よって途中までしか書かれていませんが、とりあえず公開します。)

 

アルチンボルドについて

アルチンボルドの人生を大まかに区分するならば、次のように3つの時代に分けられる。ミラノの時代、ハプスブルク宮廷に仕えた時代、晩年のミラノの時代、である。本展覧会の目玉作品である四季の連作と四代元素の連作は、ハプスブルク宮廷の時代のもの。どちらもマクシミリアン2世に献上された作品であった。また、アルチンボルドは宮廷画家であると同時に、宮廷での儀式をアレンジするアートディレクター的な存在でもあった。宮廷画家としての役割を終えて晩年にミラノに戻ると、肖像画でありながら静物画としての色合いが濃かったアルチンボルドの作品はミラノの画家たちに影響を与え、ミラノで静物画が広く描かれるようになる一助をなしたと考えられる。

 

・四季の連作と四大元素の連作について

マクシミリアン2世に献上された作品であるとされている。寄せ絵の技術が注目される作品たちであるが、その奇抜さの中に、しっかりと皇帝礼賛のシンボルが散りばめられている。また、作品のテーマである四季と四大元素(大気、火、大地、水)自体、皇帝があらゆる時代(時間?)と森羅万象を支配するというイメージに立脚するものである。

正直に言うと、僕は本展覧会に足を運ぶ前には、この連作にある種の気持ち悪さを感じていた。例えば《春》には、花びらの微細な描写が密に集合しているさまに、集合体恐怖のような気味の悪さを感じていた。また《水》では、頭部を構成する海洋生物のリアルな描写があまりに生臭く感じられた。そういうわけで、パソコンの画面や雑誌の紙面でこの作品を目にするたびに、背中がゾワゾワとして鳥肌が立つような気持ち悪さを感じていたのだが、結論から言うと、本物を目にしたときにはそのような感覚は無縁であった。その理由は、アルチンボルドの描く植物や生き物は一つ一つが可愛らしく生き生きしていることにあると思う。例えば、《春》を構成する花は一つ一つの形が整っている。また実物をよく見ると、花びらの部分では微妙に絵具が盛り上がっている箇所もあり、そうした表面の僅かな立体感が、鑑賞者に自然な印象を与えているのだと思う。

 

ここまでw

【絵画】DIC川村記念美術館コレクションの雑感

今日は千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館に行ってきました。

展覧会としてはヴォルス展を見てきたのですが、そちらは一先ず置いておいて、美術館所蔵作品の展示について、気になった作品を中心に覚書的に記しておこうと思います。

DIC川村記念美術館のコレクションの展示は、年に数回入れ替えがなされているようです。

以下で私が言及する作品も、常に展示されているわけではないと思われるので、実際に見に行ってみようと思われた方は、DIC川村記念美術館のホームページで「今見られるコレクション」を確認されてから行くと良いと思います。

http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/current.html

なお、DIC川村記念美術館は館内撮影禁止となっています。以下に載せる絵画の画像は、図録やポストカードに掲載されているものを撮影したものです。そのため、撮影に伴う光の反射や、影、画面の歪みなどが生じています。あくまでも作品を同定するための画像として載せているだけですので、その点はご了承ください。

 

マリー・ローランサン《ピクニック》(1932−33頃)

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太めの筆のタッチと、パステルカラーの色使いがうまく調和していて、可愛い。どこかお伽話の世界のようで、ほわわんとした夢を見ているような気分になる。ピクニックという作品名だが、少女たちは、何か遊ぶ物や食べる物を持ってきているわけではないようだ。画面右の青い服の少女は、白馬に乗ってきている。良いとこのお嬢様の集まりなのだろうか。場所は、画面左上に橋が見えることからすると、川の土手のようなところだろう。この少女たちは、これから何を語り合うのだろう。

以下は完全に偏見。お伽話のような世界で可愛いと書いたが、大抵こういった世界観を好む人は、何かしら現実に闇を抱えているものだと思う。マイメロ好きで部屋がピンクピンクしている女の子は、メンタルが以下略と相場が決まっている(そうでない人がいたらごめんなさい)。この作品に描かれている少女たちの会話では、彼女たちのどす黒い部分が吹き出さないことを祈るばかりである。(そのような穿った見方をすると、少女たちの黒く塗り潰された目は、どこか不気味な雰囲気を感じさせる気がしないでもない。)

 

マルク・シャガール《赤い太陽》(1949)

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マルク・シャガールダヴィデ王の夢》(1966)

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シャガールの絵は好きなので、2作品も目にすることができて嬉しかった。西洋絵画というと理想的な美だとかが追究される大人の世界という印象があるが、シャガールの作品は、どこか子どもの頃に見ていた夢を想起させるようで、まだ大人になりきれていない大人に居場所を与えてくれる気がする。シャガールの絵にはシャガール特有のモチーフがあるが(例えば山羊など)、それがどういった意味を持つのかを調べてみたいと思った。

 

ジョゼフ・アルバース《正方形賛歌のための習作:「グローイング」》(1968)

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こういう絵を見ていると、鑑賞者として画家に挑戦を仕掛けられているような気になる。何か具象的なものが描かれているわけではなく、ただ正方形が色と大きさを変えて入れ子状に描かれているだけ。これを見て、何をどう感じれば良いのだろうか?正方形が生む構図の安定を感じる一方で、外側2つのグレーの正方形と内側の黄緑色の正方形は色彩的に反発している。また、外側の正方形から内側の正方形に向かうに従って色の明るさが上がっていくため、外側の正方形よりも内側の正方形が手前に配置されているように見える。内側の正方形が手前に出っ張っていて、外側の正方形は奥にあるような感じ。たった3つの正方形だけで、画面の中に安定した奥行きを作り出すことができる、そのことを画家は示したかったのだろうか。

以上は私の行き当たりばったりの推察である。たぶん画家はもっと哲学的で難しいことを考えているのだろう。いずれにしろ、絵から具体的な何かを読み取るのではなく、ただ絵がそこにあること、それ自体を純粋に知覚しなければならない類の絵画は、それを目の前にして何を考えれば良いのか、あるいはそもそも考えて良いものなのか、迷うところである。

 

イヴ・クライン《青のモノクローム(IKB130)》(1960)

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 クライン自身は青のモノクローム絵画をいくつも製作しているようである。今回展示されていたのは、小さめの作品だった。僕自身、インターナショナル・クライン・ブルー(青のモノクローム作品に使われる塗料の色)は好きで、じっと見ていると、どこか別の世界に引き込まれるような気がする。画像では分からないが、塗料が塗られている基盤である石膏は表面が微妙に凸凹していて、ごく表面的に立体感が生まれている。できればもっと大きいタイプのモノクローム作品を目の前にして、気が済むまでボーっと眺めて過ごしたい。

 

マーク・ロスコシーグラム壁画》(1958,59)

ロスコ・ルームに展示されている7枚のロスコ作品。ロスコ・ルームは照明がやや暗めに設定されていて、絵がぼんやりと浮かび上がっているように見える。絵には四角形のような形状が描かれていて、扉のようなものを連想させる。さながら、赤黒い冥界へと通じているかのようである。ロスコ・ルームを体感するためだけでも、DIC川村記念美術館に行く価値があると思う。

 

もっといい加減に一言メモ程度で書く予定だったのに、思ったよりも長くなってしまいました。

今回はこの辺で終わりにします。

【絵画】ミュシャ展の感想

国立新美術館で開催中のミュシャ展を観に行ってきたので、簡単に感想を書き留めておきます。

 

今回のミュシャ展の目玉は、何と言っても《スラヴ叙事詩》全20作です。

《スラヴ叙事詩》実物は、圧倒的な大きさでした。離れて見ないと全体像を把握できないのですが、絵の中での明暗表現がはっきりしていて、見るべきポイントはパッと目に飛び込んでくるようでした。この辺り、商業広告を手掛けていたミュシャの「見せる技術」が光っていました。その一方で、作品に近寄って見ると、人物の表情などが緻密に描き込まれており、そういった細かい部分からも作品の世界観がひしひしと伝わってきました。特に13作目の《フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー》は、作品の目の前に立つと、本当に自分が絵の中の世界に入ってしまったかのような感じがしました。それくらいリアリティがあったというか、画面全体が緻密に描かれているわけではないけれども、普通に見ていて視点を向ける場所はしっかり描き込まれているんですよね。メリハリがついていて、人間の視覚認知のあり方に近い描き方なのだと思います。この辺り、ジャコメッティの《終わりなきパリ》の描き方と共通しているなぁと思ったりしました。

さて、そんな《スラヴ叙事詩》ですが、私は正直なところ、スラヴ民族の歴史についてほとんど何も知りません。それでも、《スラヴ叙事詩》を見て深く感じるところがありました。それは、絵の大きさに伴う圧倒的な存在感やミュシャの巧みな絵画表現に由来する部分もありますが、より根本的には、ミュシャが絵に込めたメッセージが世界共通で理解されうる深さを持っていることによると思います。例えば、ミュシャはスラヴ民族の戦争の場面を描きますが、それは決して、民族の軍事的な強さを誇示するものではありません。8作目《グルンヴァルトの戦いの後》は、スラヴ民族が勝利した後の戦場の一場面ですが、画面前景〜中景に描かれている殉死した兵士達の姿は、戦争の虚しさを強く印象づけています。現代の我々が、「民族の団結」などという言葉を用いるとき(そもそも「民族」という言葉が現在どういった意味を持つ言葉なのかはひとまずおくとして)、それはともすれば「自民族の優位」「他民族の排除」に直結しかねない危うさがあります。ミュシャは、スラヴ民族を愛する一方で、他民族との平和的共生の大切さを強く理解していたのでしょう。《スラヴ叙事詩》がスラヴ民族の結束に寄与することを意図しながらも、平和主義者であったミュシャは、それが他の民族との分断を生み出すのではなく、他の「人々との間に橋をかける」ことを望んでいたのです。その(薄っぺらい言葉ではありますが)世界平和への想いが、現代日本に生きる私の心の中にも強く響いてくるのを感じました。

最後に、《スラヴ叙事詩》20作目の《スラヴ民族の賛歌》の写真を載せて終わりたいと思います。ミュシャは、「人々は互いに理解し、歩み合うことができる」というようなことを言っていたそうです。《スラヴ民族の賛歌》は、それを象徴的に表す作品です。幾多の苦難を乗り越えて平和的に団結し、互いに理解しあうことで他者と共存する。そのようなスラヴ民族の夢を描いた作品だと私は理解しています。現在は、もはやミュシャの生きていた頃のような民族主義の風が吹き通る時代ではないのかもしれません。それでも、民族や人種による分断の思想は所々で顔を出し、戦争は至るところで起きています。ミュシャの描いた《スラヴ叙事詩》は、その芸術性において価値があるだけでなく、そこに込められたメッセージも、今なお多くの人々に考えられるべき意味を持つものだと思ったのでした。

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