とあるロー生の雑記帳

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【絵画】ミュシャ展の感想

国立新美術館で開催中のミュシャ展を観に行ってきたので、簡単に感想を書き留めておきます。

 

今回のミュシャ展の目玉は、何と言っても《スラヴ叙事詩》全20作です。

《スラヴ叙事詩》実物は、圧倒的な大きさでした。離れて見ないと全体像を把握できないのですが、絵の中での明暗表現がはっきりしていて、見るべきポイントはパッと目に飛び込んでくるようでした。この辺り、商業広告を手掛けていたミュシャの「見せる技術」が光っていました。その一方で、作品に近寄って見ると、人物の表情などが緻密に描き込まれており、そういった細かい部分からも作品の世界観がひしひしと伝わってきました。特に13作目の《フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー》は、作品の目の前に立つと、本当に自分が絵の中の世界に入ってしまったかのような感じがしました。それくらいリアリティがあったというか、画面全体が緻密に描かれているわけではないけれども、普通に見ていて視点を向ける場所はしっかり描き込まれているんですよね。メリハリがついていて、人間の視覚認知のあり方に近い描き方なのだと思います。この辺り、ジャコメッティの《終わりなきパリ》の描き方と共通しているなぁと思ったりしました。

さて、そんな《スラヴ叙事詩》ですが、私は正直なところ、スラヴ民族の歴史についてほとんど何も知りません。それでも、《スラヴ叙事詩》を見て深く感じるところがありました。それは、絵の大きさに伴う圧倒的な存在感やミュシャの巧みな絵画表現に由来する部分もありますが、より根本的には、ミュシャが絵に込めたメッセージが世界共通で理解されうる深さを持っていることによると思います。例えば、ミュシャはスラヴ民族の戦争の場面を描きますが、それは決して、民族の軍事的な強さを誇示するものではありません。8作目《グルンヴァルトの戦いの後》は、スラヴ民族が勝利した後の戦場の一場面ですが、画面前景〜中景に描かれている殉死した兵士達の姿は、戦争の虚しさを強く印象づけています。現代の我々が、「民族の団結」などという言葉を用いるとき(そもそも「民族」という言葉が現在どういった意味を持つ言葉なのかはひとまずおくとして)、それはともすれば「自民族の優位」「他民族の排除」に直結しかねない危うさがあります。ミュシャは、スラヴ民族を愛する一方で、他民族との平和的共生の大切さを強く理解していたのでしょう。《スラヴ叙事詩》がスラヴ民族の結束に寄与することを意図しながらも、平和主義者であったミュシャは、それが他の民族との分断を生み出すのではなく、他の「人々との間に橋をかける」ことを望んでいたのです。その(薄っぺらい言葉ではありますが)世界平和への想いが、現代日本に生きる私の心の中にも強く響いてくるのを感じました。

最後に、《スラヴ叙事詩》20作目の《スラヴ民族の賛歌》の写真を載せて終わりたいと思います。ミュシャは、「人々は互いに理解し、歩み合うことができる」というようなことを言っていたそうです。《スラヴ民族の賛歌》は、それを象徴的に表す作品です。幾多の苦難を乗り越えて平和的に団結し、互いに理解しあうことで他者と共存する。そのようなスラヴ民族の夢を描いた作品だと私は理解しています。現在は、もはやミュシャの生きていた頃のような民族主義の風が吹き通る時代ではないのかもしれません。それでも、民族や人種による分断の思想は所々で顔を出し、戦争は至るところで起きています。ミュシャの描いた《スラヴ叙事詩》は、その芸術性において価値があるだけでなく、そこに込められたメッセージも、今なお多くの人々に考えられるべき意味を持つものだと思ったのでした。

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