とあるロー生の雑記帳

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【絵画】ヴラマンク展の感想

先日、静岡市美術館で開催中(9月24日まで)の、ヴラマンク展に行ってきた。

 

モーリス・ド・ヴラマンクという画家をご存知だろうか?

 

ヴラマンクは19世紀末~20世紀にフランスで活動した画家である。

美術史の入門書を読めば、その名前が載っているような画家であり、その意味では名の知れた画家である。しかし、モネやセザンヌなどといったビッグネームと比べれば、一般的な知名度は必ずしも高くはないかもしれない。

google画像検索で「ヴラマンク」と検索すれば出てくるが、荒涼とした寒村の雪景色を描いた作品で、とりわけ知られている。

ヴラマンクは、一般には、フォーヴィスム(野獣派)の画家に分類されるようである。しかし、そうした雪景色の作品を見れば分かるように、必ずしもフォーヴに特有の奇抜な原色の組み合わせを見て取ることができない作品も多い。これは、他の多くの画家にもしばしば見られるように、ヴラマンクが画風を変遷させていったためである。彼は、フォーヴの画家として知られた後に、セザンヌへの傾倒を経て、フォーヴから離れた独自の画風を確立していったのである。

 

さて、本展は、ヴラマンクがフォーヴから離れて以降の作品にスポットライトを当てている。

そして、本展の特徴は、ヴラマンクの絵画作品に、彼の残した言葉をキャプションとして添えている点にある。

実は、ヴラマンクは画家であると同時に、文筆家でもあった。絵画を制作する傍らで、言葉による表現を残していたのである。なんと、生涯で20点以上もの著作を発表しているそうだ。

本展は、絵画作品と画家の言葉を並べて展示し、その対応・共鳴を味わうことができる仕掛けになっている。例えば、No.20《壺に活けられた花》には次のような言葉が添えられる。

描くこと!それは、死者の遺産をあてにすることではない。それは、コローを見出すことでもなく、クールベを改良することでもなく、近しい縁者としてプッサンを語ることでもない。自分自身の考えを述べる以外のなにものでもないのである。…(中略)巨匠たちを見ることは、彼らの作品を真似たりすることではないのである!…(後略)

ーーーヴラマンク展図録、37頁

 この言葉は、ヴラマンクの絵画への姿勢をよく表している。つまり、彼は、先人の画家をあてにしたり、他の画家たちの絵画運動に同調するのではなく、あくまでも我が道を行くタイプの画家だったのである。

もっとも、ヴラマンクは1907年にセザンヌの大回顧展を見て、セザンヌ幾何学的構成を自らの画面構成の基礎として取り込んだようである。そして、それは後に描かれるようになる雪景色の絵の中にも、尾を引いているように見受けられる。その意味では、セザンヌの系譜に属する画家と言っても良いのではないだろうか(この辺り、私は絵画について門外漢なので、断定的なことは書けないが…。)

ともあれ、一般にフォーヴの画家に分類されるブラマンクだが、決してフォーヴに尽きる画家ではないことはお分かりいただけると思う。

 

ヴラマンクの作品を見れば分かることだが、彼は決して、外界を模倣するタイプの画家ではない。そして、さらに言えば、外界の美しさそのものを画面に再構成しようとしているというわけでもなさそうだ。

彼が描こうとしているのは、例えば何気ない農村の風景を見た時に、ふと私たちの心の奥底で何かが揺さぶられるような気がする、あの感覚・感動であろう。

そして、画面において表現されるのが感動であるからこそ、その表現は普遍性を持つ。

というのは、確かに日本でヴラマンクの絵を見る私は、彼が描いたフランスの風景を見たことがない。しかし、彼がフランスの農村を眺めて、彼の心の中に湧き出してきた感動については、それと同種のものを、私も感じたことがあるはずだ。ふとした瞬間、例えば学校からの帰り道に夕日を眺めながら、ああなんて美しいのだろうと思われるような、あの感動は、どこの国のどこの夕焼けにも共通のものだろう。ヴラマンクが描いている感動は、その類のものであると私は思う。

 

というわけで、ヴラマンクの絵は、ある意味で分かりやすい。

彼の絵を目の前にして、彼が表現したかった感情・感動を感じる。そして、それは自分がかつて抱いた感情・感動と共鳴するものであるはずだ。

ヴラマンクの作品だけで一つの展覧会が構成され、それをまとめて鑑賞できる機会は、そうそう無いように思う。

気になった方は、ぜひ静岡市美術館へ。