とあるロー生の雑記帳

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【絵画】墨と金–狩野派の絵画–展の覚書

根津美術館で開催中の本企画展を見てきましたので、簡単に覚書を記しておきます。なお、私は日本美術については無知であり、本展も予備知識の無い状態で見てきました。よって、以下の覚書には、勘違いや記憶違いの記述が含まれている可能性も十分にありますので、その点をご留意ください。また、もし誤りがあれば、コメントにてご指摘いただけると幸いです。

 

    狩野派は、室町時代に興った絵画の流派である。足利将軍、織田信長豊臣秀吉、そして江戸幕府の将軍らに取り立てられ、その間長年に渡って日本画壇をリードしてきた。

    狩野派において革新的だったものは何か。一つには、絵の画風を整理し直したということがある。室町時代狩野派以前には、注文主が画家に絵を注文する際に、有名な中国人画家の名前を用いて作風を指定するということが行われていた。例えば、玉澗に倣って「玉澗様」、夏珪に倣って「夏珪様」といったように。しかし、この方法には問題があった。指定された同じ画家の中でも、どの作品を模範とするかによって、作風にバラつきが発生してしまうのである。狩野派2代目の狩野元信は、この問題を解決すべく、次の3つの型に画風を整理した。「真体」「行体」「草体」である。これは、それぞれ書道における楷書、行書、草書に対応している。真体は硬い線で緻密な描写、草体は撥墨や滲みを利用した、崩した描写、行体はその中間であり、柔らかみや丸みを帯びた描写を特徴とする。この分類が、狩野派における革新性の一つ目である。

    さらに、狩野派が柔軟に絵画表現の幅を広げていったことも見逃せない。具体的には、6代目狩野探幽による《両帝図屏風》に見て取れるように、屏風絵への金(gold)の使用である。元々、屏風絵に金を使用するのは、やまと絵において用いられていた技法であった。対して、狩野派水墨画における中国寄りの画風であったが、金による彩色を取り入れた。狩野派による初の金屏風制作は、明の皇帝への献上品であったという。その背景には、狩野派が中国絵画との差別化を試みるという、いわば日本化の意図があったと推察される。では、実際に金はどのように使われているだろうか。探幽の《両帝図屏風》での金の使われ方は、単に画面に金箔が貼り付けられるというだけのものではない。むしろ、金箔がベタ貼りされている部分はごく一部であり、その他に、金砂子(金粉)や金泥(にかわに金粉を混ぜて溶いたもの)が用いられている。このように、金を多彩に用いる技法によって、表情豊かな金雲の表現を実現しているのである。

 

その他、箇条書きで…。

・ 《養蚕機織図屏風》(伝元信)における養蚕機織図は、為政者に庶民の生活を知らしめるための画題である。

・麝香猫(ジャコウネコ)は狩野派の画家によってしばしば描かれたが、これは縁起の良い(?)画題であり、名古屋城本丸御殿の障壁画にも描かれている。

 

以上、この辺で!